品位と身の丈【他人目線で考える】
こんにちは、わいちゃんです。
先日読んだ本にこんな感じのことが書かれていた。
「自分の財産と比較して、過度に品位を保とうとするのは贅沢である」
ドキリとさせられる文章。財産と比較して身の丈に合わない贅沢をどれほどして来ただろうか。。身の丈に合わない品位って例えばなんだろうということを考えてみたい。
品位と身の丈
その前に品位って今更ながらなんだろうと思い、ネットでググってみる。すると「清潔感があり、身だしなみが整っている」「言葉遣いが丁寧」「礼儀やマナーがきちんとしている」「身のこなしが美しい」「教養がある」などがヒットした。
こうしてみると財産と直結する項目は「清潔感があり、身だしなみが整っている」な気がしてくる。言葉遣いも、姿勢も、礼儀も財産があっても身に付くものではない。むしろ財産がないのならばここぐらいはクリアしておきたいものである。
教養も、今は本が安く手に入る時代だ。なんとかなりそうな気がしてくる。
そうなればやはり気にすべきことは「清潔感」と「身だしなみ」。
しかも過度にこれらを保とうとすると、贅沢に値するという、なんとも難しいけどやりがちなことだ。
贅沢な清潔感とはいったいなんなのだろう。
贅沢な清潔感ってなんだ?
真っ先に思い浮かんだのは、美容に関することだった。
歯のホワイトニングだったり、身体のシミの除去、スーパーロングヘアのヘアケア。これらは値段が結構張る。だからいつも贅沢をしている罪悪感があった。
毎シーズン新品の靴を履き、シワがつけばアイロンで伸ばさずにすぐに買い換えるワイシャツなどもそうなのだろうか。
脱毛はどうだろう?私を含め、昔と比較しても脱毛に通った経験のある人は多いみたい。
男性だって脱毛サロンに通っているひとは珍しく無くなって来た。足がつるつるで、清潔感があるらしい。
贅沢な身だしなみってなんだ?
では身だしなみの方はどうだろう。
こちらもネットで調べてみると「相手を不快にさせない服装や格好」らしい。
過度に長すぎる爪とか、ゴテゴテネイルアート、派手な髪やばさばさまつ毛なんかも人によっては身だしなみがなっていないということになるのだろうか?
どのまでが庶民としての品位を保つための清潔感で、どこからが贅沢な清潔感なのかの線引きは現代において少し難しいと最初は感じたが、すぐに勘違いであったことがわかった。
自分のことになると、判断が難しいけれど、他の人がやっていることに贅沢と感じるかどうか。これで判断してみるのはどうだろう。
他人がしていて、贅沢と感じるか、清潔な身だしなみと感じるか
胸に手をあてて考えてみる。
もし他人が歯のホワイトニングあったり、シミの除去、ヘアケアに力を入れていたらどう思うか。。
結論、「どうぞどうぞ!やってください!」であった。
もはや何だかこちらまで嬉しい気持ちになる。
それは多分、清潔に感じることだから私も嬉しくなるんだと分析してみた。
美しいネイルアートや、バサバサのまつ毛はどうだろう。
「ご自由にどうぞ!」というのが正直な感想だ。つまりはオシャレには関係あるけれど、清潔感にはあまり影響がない部分なのかもしれない。
プラダの着た悪魔は、オシャレじゃない人を見るのを嫌がった
「他人がしていて嬉しいことか」が私の清潔と贅沢の境目としての判断軸の候補になった。
ロレックスをつけているという報告よりも、毎シーズン下着を買い替えている、という報告の方が個人的には好印象だ。ブランドもののすり減った靴よりも、ソールの削れていないスニーカーの方が随分印象はいい。
しかしふと思い出したのが、「プラダを着た悪魔」でのワンシーンだった。
主人公があまりオシャレとは言えない格好で有名人気雑誌のカリスマ編集長の前に現れた時、カリスマ編集長の機嫌を酷く損ねたシーンが思い出される。
アパレル企業のカリスマ編集長の価値観からすると、オシャレじゃない服装は品がない行為と同意だった。だから品とは一人一人で価値基準が異なるものであることは肝に銘じなければならないのが難しいところ。
しかし一般的な人の価値基準はそこまで乖離していないはずだから、相手がしていたら自分がどう思うのかという判断で大きく贅沢と清潔の境目を見誤ることはなさそうだ。
自分の行いを他人がしていたら?で考える癖
結局、幼い頃に言われ続けたようなことが結論となってしまった。
清潔と贅沢の違いは、他人がしていて嬉しい気持ちになるか、特になにも思わないかということで一旦は結論としてみたい。
そうすると、今タイピングしている私の爪にのった大小のストーンは、すこし贅沢ということになるのかもしれない。