運動嫌いランニングをする【メンタルに一番効いた】
こんにちは、わいちゃんです。
「運動をする」ということの楽しさが長い間、全くわからなかった。というかずっと、そんな楽しみを感じる人間にはなるはずがないとあきらめきっていた。
例えば体育の授業。
体育ってなにはともあれ評価されるところ。
だから体力・筋力ともに頼りない私がようやく走り終えてほっと一息したいはずが、やれフォームは情けなくなかったか、タイムはどうだったかと心配が襲ってくる問題が発生。これは辛い。
特に、普段運動しないはずの同部活の友人がやけにタイムが良かったりすると本当に情けない。
でも運動が脳にも身体にもよい影響があるというのは現代人の周知の事実で、学校を卒業した後もいつかは運動をやらなきゃ大きなしっぺ返しが老後にのしかかってくると怯えエイと腰を上げ、なんとか無人ジム月3000円を半年契約し通わずやめ、その後プール付きのジム月7000円を1年契約し3回のみ通ったところでパタリと行けなくなってしまい、この段階でもう「真っ白な灰」。
契約という強行突破切符も、素敵なウェアを買っても、長年かけて築きあげた「運動嫌い」はもう自分でも騙せないところまで深く染みついていた。
運動嫌いランニングをする【メンタルに一番効いた】
ところが、そんな私の「常識」を根底から覆す書籍に出会ってしまったのである。
それは、運動嫌いで運動経験0の物書きさんがフルマラソンを走りきってしまうほどランニングにハマっていくエッセイ。図書館でぶらぶらしていた時、一冊の本のタイトルと目があったのが始まりだった。タイトルは「走る奴なんて馬鹿だと思ってた」。
タイトルをみて思わず息を呑んだ。え、そんなこと言っていいのと。だって最近では筋トレやピラティスが流行っていて、やっている方がエライ・素晴らしい・充実しているというのは動かぬ事実。永遠に叶わぬ「やった方がいいことリスト」に運動が追加されていたところだ。
それがバカ?そんなわけがない。運動する人はスゴイ。そのスゴイことが出来ないから悩んでいるのだ。それが(元)バカにしている人がるんるんと走り始めている表紙を見て、思わず手に取った結果、他の運動はわからないがランニングだったら私でもできるかもしれないと思わされた。
走る奴なんて馬鹿だと思ってた
ランニングとは効果的な薬である
それにしても我ながら驚くのは、我が人生から、あの「やらなきゃいけないことリスト」上位に常に居続けた運動が「我が薬になった」ということだった。
学校に入ってからずっと格闘してきた運動。やらなきゃやらなきゃと思って、でもふと気づけばカップラーメンを食べ、インスタント食品を食べ、横になってスマホでゴロゴロし、つまりはいつだって全然できなかった運動。結局、自分のことを大切にできていないのではなかろうかと苦しい気持ちになる運動。
そうなのだ。運動というものは、別に好きでもなんでもないのに、「やったほうがいいよ」と幼少期から口酸っぱく言われ続け、私の人生に妖怪のごとくベッタリととりつき、エンドレスなプレッシャーを提供し続ける存在であった。
それが気づけば、薬である。頼りにする存在である。
考えるに、運動があんなにうっとおしかった、結局は「やらなければならないこと」だからなのだ。もしその大変すぎる運動を毎日きちんとやりきることができたなら肉体的にも精神的にも素敵な生活になるんだろうが、問題は、それを日々やるとなれば時間も労力もかかりすぎて絶対むりということなのである。永遠にやり切れるはずもない途方もない宿題。目の上のタンコブ。そんな相手をなぜ好きになれることができるだろう。
でもその相手がですよ、まるで困った時に話を聞いてくれる友人のように、困った時だけたすけてくれちゃう薬にできちゃうんだとしたら…もちろん話は全然違ってくる。ただピンチの時に助けてと頼れば良いのである。
そう、これこそが我が人生に起きた魔法なのだ。
で、一体何をどうしたらそんな素敵な魔法がやってきたのか?
ということで、いよいよそのタネを明かしていく。
運動嫌いをやめるための3原則
その1「毎日しようとするのをやめる」
その2「未来のために運動しない」
その3「だれかを誘って運動しない」
まあ、まとめますと自分が運動を求めている時にだけ、その時のために、たった1人で運動しませんか?という提案です。